王希奇「葫蘆島(ころとう)一九四六」大絵画展への期待

王希奇「葫蘆島(ころとう)一九四六」大絵画展への期待
 ~越境した人類愛で戦争の残虐から解放を願う芸術~
1. 葫蘆島から博多港への引揚げ
父のメモ帳には11月9日博多港上陸への感涙が残り、母の言葉は「子どもを中国に残したり、引揚船でも泣き叫ぶ子を海に捨てていた」など、悲惨な被害者意識であった。
私は中国大陸(旧満州奉天)で1946(昭和21)年7月15日に生まれている。生後3か月で親子3人博多港に上陸したという。戸籍には「中国瀋陽市生まれ(11月16日届出)」と記録されている。「内地」でしか申請出来ない国家なき混沌の時代であった。
中国との15年侵略戦争が無条件降伏で終わる。敗戦後、中国大陸でも日本民間人105万人への悲劇がはじまる。その難民は超満員列車や徒歩で、祖国に向かう。軍人や高級官僚はすでに帰国していた。
大集結地(70万人)が葫蘆島であった。もちろん、その原因は国策による中国大陸への移民、傀儡(かいらい)の満州国成立があり、被害者は中国住民であった。中国民間人1000万人の犠牲に対し、日本は310万人と厚生省(当時)は発表している。だが、当時は調査不能の混乱状況であった。
2,「葫蘆島一九四六」制作の動機と意図
王希奇氏は1960年葫蘆島のある遼寧省生まれ、私の生まれた瀋陽市で魯迅美術学院の教授をしながら制作活動を続けている戦後派である。敗戦後葫蘆島に逃れた民間人の写真集・飯山達雄『小さな引揚者』(1985年)で、「母親の遺骨箱を抱いた男装の少女」を発見。戦争の残虐性を民族や国境を超えて描く意欲が湧きあがったという。水墨画の伝統を活かしながら油絵として画き始める。3年半をかけ、2015年に高さ3m、幅20mの大作を完成させた。そこには500人余りの日本人引揚者の着の身着のまま、やつれ果て、飢えと恐怖と不安におののく難民の姿が描かれる。王希奇氏自らもその中にいる思いにとらわれて描いたと語る。
3, 我が家の引揚文化と日中友好活動
 生後3か月で博多港に上陸し、両親の故郷大分県日田の長男農家に転げ込み、敗戦後の飢えをしのいだ家族は、市営の引揚者住宅に8年間住むことになる。引揚者の苦労・苦難と団結力は周辺の村共同体から異質の場所として見られ、それ故内部のつながりは強くなった。ハレの日の家庭や市営住宅の寄り合い料理は餃子であり中華であった。愛煙家の父は日ごろ高価で入手できない「缶ピース」の空き缶で練り拡げられたメリケン粉を円型に切って餃子の皮にしていた。
そこで育った私はパールバックの『大地』、トルストイ『戦争と平和』、五味川純平の『人間の條件』などを読むことになる。1970年頃の学生時代、民間人の父を「帝国主義協力者」と批判もしてきた。
 日中平和友好条約締結(1978年)の年、「日中平和の翼」で早逝の母の写真を持ち、生誕の地を父と共に辿る。<被害者が加害者であり、加害者が被害者である>と気づいたのは、この旅の中であった。
4, 引揚げの悲劇は今、地球に再び
 日中戦争の被害・加害と人間愛を、銃で自死する自画像『初年兵哀歌』(1954年)を描き、芸術にまで高めた故・浜田知明氏の絵は観る人を一歩も動けなくする。同じ事、いや、被害者としての中国画家が国を超えて描く人類愛は、それ以上に私達を絵の前で立ち停まらせ続けるであろう。今も戦争の残虐と悲惨の中にある人々、ウクライナ、ガザ、ミャンマーなど難民の解放を願って。
                                   (終)          
2025(令和7)年10月3日    森山 沾一(もりやま せんいち)

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